名古屋での活動初期
- 18歳より演劇活動を開始。
- 名古屋市内の劇団に俳優として参加。
- 仲間と劇団を旗揚げし、劇作・演出を中心に活動。

Kosaku Nakano
俳優/劇作家/演出家/表現指導者/詩人
愛知県名古屋市出身。
18歳より演劇活動を開始。名古屋での劇団活動を経て上京し、俳優として小劇場を中心に活動する傍ら、自身の劇団を旗揚げ。劇作・演出・出演を担い、舞台作品の創作を続ける。
その後、一人芝居、朗読、ポエトリーリーディング、即興演技、身体表現などへ活動領域を広げ、演劇を基盤としながら複数の表現形式を横断する。
現在は名古屋を拠点に、「ナナキハナ(初期名義:Theater Hanairo)」を主宰。初心者向けワークショップを中心に、舞台作品の創作・上演、演技指導、参加型作品の企画・開発を行う。
また、個人活動名義「平熱文化圏」にて、戯曲、詩、絵、文章などの創作と発表を行っている。
演劇との関わりにおいて、長く関心を向けてきたのは、演劇空間そのものの成立と、その変容についてである。
舞台と客席が向かい合い、俳優が演じ、観客がそれを鑑賞する。
従来の劇場構造において当然のように存在するこの関係は、必ずしも演劇に不可欠なものではない。劇場という場所、舞台という領域、そこに立つ俳優と観客の関係を、あらかじめ定められた形式として受け入れることに疑問を持ってきた。
何をもって、その場所は演劇空間となるのか。
この問いは、初期の作品において、物理的な空間構成への関心として現れた。
カフェや小劇場など、それぞれ異なる条件を持つ場所で、固定的な舞台面を設けることを避け、オブジェクトや紙、小道具などを空間に配置する。舞台美術を単なる背景や装飾としてではなく、俳優や観客とともに空間を成立させる要素として扱い、既存の場所が別の意味を獲得する可能性を探ってきた。
やがて、その関心は物理的な空間構成から、俳優自身の身体と演技へと移っていく。
同じ場所であっても、俳優がどのように存在し、何を認識し、いかに行為するかによって、空間はまったく異なるものとなる。
空間を変容させるために、必ずしも装置や美術を必要としない。
俳優の身体そのものが、空間を構築し、変容させる働きを持っている。
この認識が、演出における空間構成への関心を、演技そのものの構造を探究する方向へと変化させていった。
身体とは、単に目に見える肉体や、その運動だけを指すものではない。
そこには意識があり、認識があり、自身と周囲との関係がある。
俳優が何を見て、何を感じ、何を存在するものとして受け入れているのか。その意識の在り方は、姿勢や動作、呼吸、他者との距離、空間における存在の仕方へと結びついていく。
意識は身体から切り離されたものではなく、身体性を構成する一部である。
その考えを基盤として、異化と同化という二つの働きに関心を持っている。
自分自身の身体を、既知のものとしてではなく、改めて捉え直すこと。
それまで当然としていた身体の在り方から距離を取り、異なる身体の可能性を認識すること。そして、その認識を自身の身体に取り込み、新たな身体の在り方として成立させること。
この働きは、身体の内部だけにとどまらない。
俳優は自身の身体と同じように、周囲の空間を捉え直し、異なる意味を与え、その空間の中に存在する。
さらに、その認識や行為は、共演者や観客といった他者へも作用する。
他者もまた、それぞれの身体と認識を持って空間に存在している。ある俳優の行為によって他者の認識が変わり、その応答によって俳優自身の認識も変化する。
異化と同化は、一度きりの変化ではなく、自己と他者、身体と空間の間で繰り返される相互的な働きとして捉えている。
自己が他者へと働きかけ、他者によって自己が変容する。
その循環の中で、個人の境界や、空間の意味、そこで成立する関係は絶えず変化していく。
こうした空間と身体への関心は、やがて俳優が演じるという行為そのものへの問いにつながった。
俳優は、舞台上で何をしているのか。
役を演じるとは、人物らしい振る舞いを再現することなのか。感情を表出することなのか。それとも、与えられた状況の中で、他者と関わりながら存在し、行為することなのか。
演技について考える中で重視するようになったのは、俳優が人物を外側から模倣することではなく、その人物が置かれた条件を引き受け、舞台上で実際に存在し、行為することである。
俳優にとって、役は完成された人物像を再現するための型ではない。
その場において果たす役割であり、他者と関わり、状況に働きかけるための条件でもある。
戯曲もまた、完成した演技を指定するものではなく、俳優が進むべき地形を示すものとして捉えている。
稽古では、その地形を読み取り、さまざまな可能性を検討する。しかし、本番において重要なのは、あらかじめ決めた表現を正確になぞることだけではない。
その瞬間、そこに存在する他者や空間から生じる情報を受け取り、行為すること。
演技の目的は、表現された形そのものにあるのではなく、その形を生み出す行為と関係の中にある。
この考えを、俳優としての実践、演出、演技指導を通じて検証し、整理してきたものが、独自の演技モデル「Expression Tree Model(ETM)」である。
ETMでは、演技を一本の樹になぞらえ、存在の核を「根」、他者とのつながりを「幹」、演技行為を「枝」、観客に現れる表現を「葉」として捉える。
観客に見えている演技表現だけを修正するのではなく、その表現がいかなる存在状態や関係、目的を経て生じているのかを考える。
演技を個別の技術の集合としてではなく、相互に関係する一つの構造として理解するための試みである。
ETMは完成された正解として提示するものではない。
俳優として演じ、演出家として俳優と向き合い、指導者として他者の演技に触れる。その実践と考察を往復しながら、現在も構築を続けている。
劇作をはじめとする創作において、繰り返し向き合ってきたのは、「私」とは何なのか、という問いである。
自己と他者を隔てるものは何か。身体や記憶、意識、言葉によって形づくられる個人という存在は、どこまで確かなものなのか。
人は他者を理解しようとし、ときに同化を求め、ときに拒絶する。しかし、他者との隔たりが失われ、互いの境界が曖昧になったとき、そこに残る「私」とは何なのか。
こうした問いは、写実的な人間描写によって直接的に語られるよりも、寓話的な世界や状況の中で形を与えられることが多い。
現実からわずかに逸脱した世界。独自の規則によって成立する場所。奇妙な関係に置かれた人々。
そこに現れる人物や出来事は、物語の中で具体的な存在として描かれると同時に、人間の在り方や他者との関係を映し出す象徴としての性質を帯びる。
作品には、不条理や滑稽さ、ときに残酷さや不穏さが入り混じる。
しかし、それらは特定の教訓や結論を導くためのものではない。
日常の中で当然とされている認識や関係を揺さぶり、その奥にある矛盾や不確かさを浮かび上がらせる。
寓話性は、現実から離れた幻想的な世界を描くこと自体を目的としているのではなく、現実を成立させている条件を別の角度から捉え直すための方法でもある。
登場人物を固定された人格として描くのではなく、他者や環境との関係の中で変容し、ときに自身の輪郭を失っていく存在として捉える。
そこでは、理解と断絶、親密さと異質さ、同化と拒絶が、必ずしも対立するものとして存在しているわけではない。
相反するものが同時に存在し、互いに作用しながら、人間の存在そのものを揺さぶっていく。
また、物語の中で起こる出来事を、思想や観念の説明としてのみ扱うことはしない。
奇妙な状況に置かれた人物が何を選び、何を語り、どのように他者と関わるのか。
その行為の積み重ねによって、人物自身も予期しなかった関係や状況が生まれる。
思想を物語によって説明するのではなく、思想そのものが出来事として発生する世界を構築すること。
そのことが、劇作における一つの関心となっている。
こうした創作上の問いは、演技における身体の異化と同化、他者との関係、空間の変容に対する考え方とも重なっている。
演技においては、自身の身体を捉え直し、他者や空間との関係の中で新たな存在の仕方を探る。
創作においては、人物を取り巻く世界や関係を変化させることで、その人物が「私」として存在する条件そのものを揺さぶる。
その方法は異なっていても、いずれも自己と他者、個と世界を隔てる境界に働きかける試みである。
「私」とは何なのか。
その問いに対して、明確な答えを提示することを目的とはしていない。
むしろ、問いを解決することなく、さまざまな人物や状況、関係を通して繰り返し捉え直すこと。
寓話という形式は、その問いを現実の具体的な条件から一度切り離し、異なる角度から見つめ直すための方法でもある。
そして演技は、その問いを観念の中だけにとどめず、実際の身体と空間、他者との関係の中で生じさせるための行為でもある。
演じることと、書くこと。
その二つは異なる営みでありながら、身体を持ち、他者と隔てられた存在として生きる「私」を、繰り返し問い直すという点でつながっている。
演劇活動の中では、俳優、劇作家、演出家、指導者など、複数の立場を担ってきた。
しかし、それぞれの肩書きを獲得すること自体が目的だったわけではない。
自分が考える演劇を成立させるために、必要な役割を引き受けてきたという側面が大きい。
劇団を立ち上げたことも、戯曲を書き、演出し、自ら舞台に立ってきたことも、その延長線上にある。
東京での活動を経て、一度演劇から距離を置いた後、名古屋で活動を再開するにあたっては、作品を上演することに加え、他者が演劇に出会い、実際に表現を行うための場所づくりにも取り組むようになった。
Theater Hanairoでは、演劇経験の有無にかかわらず参加できる講座やワークショップを開催。演劇を特定の技術を持った人だけのものとせず、誰もが自分の身体や言葉を通じて表現に触れられる機会をつくってきた。
その活動から公演企画や新たな表現者との関係が生まれ、現在のナナキハナ、そしてExpression Atelier Hananokoへとつながっている。
Hananokoでは、演技を教えることにとどまらず、俳優自身が自分の身体や認識、他者との関係を発見し、表現を探究できる場所を目指している。
ここでも重視するのは、特定の演技様式や正解を習得することだけではない。
自分自身の身体を知り、他者と関わり、その中で何が起きているのかを認識すること。
演劇のための技術を身につけることと同時に、表現する人間自身の可能性を広げることを考えている。
演劇を基盤としながら、詩、朗読、即興、身体表現、絵、文章など、複数の形式で創作を続けてきた。
それらは演劇とは別の活動として存在する一方で、身体、言葉、空間、他者との関係を問い直すという点において、互いに接続している。
また、上演という形式そのものにも関心を持ち、観客が作品を鑑賞するだけでなく、自ら行為することで出来事が成立する参加型作品の制作にも取り組んでいる。
参加型怪異譚「ヨミアソビ」は、その試みの一つである。
観客と演者という固定的な役割を問い直し、参加者それぞれの行為によって、一つの物語や空間が立ち上がっていく構造を持つ。
演劇を成立させるものは何なのか。
誰が演じ、誰が観るのか。
身体はどこまで自己のものであり、どこから他者や空間へと広がっていくのか。
こうした問いは、初期の舞台空間への関心から形を変えながら、現在の創作にも続いている。
一つの形式や立場に活動を限定することなく、その時々に必要な方法を選び、試み、変化させていく。
演劇を行うことは、既にある形式に作品を当てはめることではなく、そこに存在する身体、意識、言葉、空間、他者の関係を新たに構築することでもある。
その可能性を探り続けることが、現在の表現活動の基盤となっている。
中野浩作による個人の表現活動名義です。舞台、戯曲、詩、絵、即興表現をはじめ、参加型表現のヨミアソビや、演技理論ETMの探究もここにつながっています。
演劇活動の基盤です。公演・企画・ワークショップを行うTheater Hanairoと、演技を継続して学ぶ場であるExpression Atelier Hananokoを展開しています。
演劇から放射状に望むまま、赴くままに表現を往来しています。
詩と戯曲を中心とした何らかの物語。
コンタクトインプロビゼーションを軸に、ダンスや身体表現の為の肉体ではなく、如何に表現としての基盤となる器になれるかを模索。
ゼンタングルをベースにただ淡々と同じ図案を書き続け、何かの形を描く。
ダンサー、詩人、芸術家、音楽家、即興の表現を用い、その瞬間その瞬間で発生した感覚から新しい表現を生み出すこと
初心者向け演劇ワークショップや演技指導など
何者かになるわけではない。
すでに何者かではあるのだから。
絶えず絶えまず、感じ続ける。
五感だけで足りないことを感じた時に、
自らの内に表現することの窮屈さを感じるだろう。
多くの体感と、多くの経験と、多くの思考により、私はここに「在る」と自らを規定する。
規定する自らには何があるのか。
私か。
私という個性か。
個性とは何か。
何かとは異質性を望むか。
異質とは異なることか。
異なることは人と違うことか。
人と違うことは悪いことか。
悪いことは良いことか。
良いことの多くは『多く』である。
『多くであること』は是か。
群体は個を失ってこその群体であろう。
社会を形成する群体において、多いことが是である群体において、
個性をもつ孤独な体に価値などあるのだろうか。
あらゆることに意味があるとして、
あらゆることに意味があるとして、
しかし、
あらゆることに意味がなかったとしても、
私は自らの規定するままにここに存在する。
自らの肉の肉体がここに在ることを認識している。
ここに在る肉体が自らの肉で出来ている以上、
この耳/鼻/口/眼球は感じることをやめないだろう。
機械的に自動的に能動的に受容するこれらの器官は私に変化を強要するのだ。
自らの肉体から自らが消える。
自らの心から自らが消える。
自らの思考から自らが消える。
消えた先にあるのは自己が他者であるという認識である。
他者と自己の境界線が溶けた時、私は何になる。
熱い血潮として流れるのでもなく、
冷徹な思想に染まるでもなく、
ただ、この肉の殻に収まった、
人の心と思考がただ、
常温平熱の人の体として何れかを表現するのを目指して。